三島の「美徳のよろめき」また読み直して、またまたほおーっと惚けた。このどうしようもない程の憎たらしい巧みさと、小説だけが持ちうる芸術の極みについて誰かと話したいけど、誰も適当な人が思いつかない。それは少し嘘で、本当はぱっと思いつく人がひとりだけいるけれど、その人とはもう昔みたくこんな些細なことを自由に話せない。それなりの事情があるのだろうし、私にはそれを邪魔する権利はないと思うから。こんな状況を作り出した自分の過去の行為や、度量のなさ、不器用さについてすこし後悔したりする。そんなことがなければ、今でも気軽に三島の話を出来る相手だったかもしれない。それとも、それは関係なくて、私達は話をしなくなる運命だったのだろうか?私が物事を自分勝手に解釈して物語を作り上げただけなのかもしれない。
とにもかくにも、女というのは、どうしてこうも自分の勝手に造り出す世界の中、自分の都合の良いように生きられるのか。現実の辛さや矛盾を美しい痛みとして昇華できるものか。三島が描く女性は、いつも目を覆いたくなるほど生々しい。
私はきっと、ふらふら飛んでいってしまうことをいつも恐れている。縛られたら縛られたで、飛んで行くことを想像してその自由な空想に苦しみを作り出して楽しむんだろうけれど。段階を予定して、縛りを作ることで、やっと落ち着いて集中できる。縛りを恐れる相手を目の当たりにすると、まるで飛んで行くことを許されているようで、心許ないきもちになる。不安だ。自分が。
三島が文中で松木という老人に言わせているが、女は情で生き抜くべきだという。敢えて理詰めしようとすればするほど墓穴を掘って失敗すると。ここで言う失敗は、例えば周りや男に愛されないということだと思う。むしろ情にほだされて突き動かされて行くところまで行って、死すら覚悟して初めて知的な思考が産まれると。なんだかその通りな気がする。
ならばそこまで行って知性を取り戻してみたいと思うけれど、私を含め大抵の人がどこか手前で妥協してわかったふりをしているんだろう。「美徳のよろめき」の主人公節子は、自ら作り上げる愛憎のドラマに溺れ、死を見る。それを経て、最後に愛人に宛てた下らない媚びた手紙を破り捨て、すべてを改めて闇に放り込むだけの理知を手に入れた。それはもはやひとときの感情に振り回される独断的な女性から解放された人間の姿だ。そこまで、人生と現実に「素直」になってみたい。飛びたいと思っているなら飛べば良いのに、本当は引き止めてほしいだけなのかもしれない。
三島には適わない。すべて見透かされて諭されているようだ。
とりあえず、懐かしいどこか世界の片隅で、ものすごく深く美味しいコーヒーをひとりでゆっくり飲みたい気分。良い音楽も必要。
すべて知りたくて、すべて忘れたい。死は怖い。でもやっぱり知りたい、そしてすべてそのまんまを一度で良いからすっかりと誰かに知られたい。三島やキリンジに対峙しているときのような感覚を、現実の誰かが味わわせてくれないかな。それで「知ったつもりになってるんでしょ」と相手を蔑む自分を確かめて、改めて自分の小ささと悲しさに気づく羽目になるのは解ってる。結局丸裸にされるのは怖いから。皆ほくそ笑むくらいが好きなんだ。